ポーランド共和国 POL/PL
Republic of Poland
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ワルシャワ[WARSAW]
31.3万Km
3819.5万人
国土の大部分が平原地。戦争が発生すれば(地形的に)簡単に進軍が可能で被害に遭ってきた。北部はバルト海に面し、西、南、東にかけてドイツ・チェコ・スロバキア・ウクライナ・ベラルーシ・ロシア(カリーニングラード)・リトアニアに囲まれている。
ワルシャワ(-1.9/1月・19.1度/7月・8.4度/年平均)
バルト海付近の北西部は温帯気候。東部・南部は冷帯気候。冬季でも降雪は少ないが、川が凍結する事もある。
966年
ピアスト朝、キリスト教を受容。
1025年
ポーランド王国成立。
1385年
リトアニア大公国と同君連合を形成。
1386年
ヤギエウォ朝、成立。15世紀から17世紀にかけて、東ヨーロッパ屈指の大国となったが衰退。
1569年
ポーランド=リトアニア共和国成立
1772年・1773年・1795年
3度にわたり、ロシア・プロセイン・オーストリアの3国に分割され滅亡。
1918年
第一次世界大戦後、共和国として独立。
1939年
ソ連とドイツに分割される。
1945年
ソ連の影響下、国民統一政府が発足。第二次世界大戦では人口の約1/5が死亡するという被害に遭っている。
1952年
人民共和国成立。
1980年
食肉値上げによる労働者のストライキが拡大。スト権と自由管理労組「連帯」の結成。という社会主義国としては前例のない権利を獲得する。
1981年
戒厳令布告。軍政になる。
1982年
「連帯」が非合法化。
1989年
「連帯」が復権。国会選挙で連帯が圧勝し、東欧初の非共産政権が成立。
1,676人(長期:1,318 永住:358)
ポーランド語(公用語)・ドイツ語
ポーランド人96.7%・シュレジエン人0.5%・ドイツ人0.4%・ベラルーシ人・ウクライナ人
カトリック教(88.6%)・ポーランド正教(1.3%)・プロテスタント(0.4%)
ズロチ
土地生産性が低く、小規模農家が多い農業国。石炭・銅・銀などの鉱物資源埋蔵量は豊富。食品・金属・自動車・電気機械が主要産業。
1986年
IMFと世界銀行に加盟。
1996年
経済協力開発機構(OECD)加盟。
2008年
世界経済の後退、欧州債務危機であってもGDP成長率をプラスで維持し、その後も堅調。
今後は、ロシアへのエネルギー依存度を下げることが課題。
外交は、NATO、EU及びアメリカとの協力強化。近隣諸国(特にチェコ・スロバキア・ハンガリー)と良好な関係を維持。ロシアとは歴史問題を抱えており、ある程度改善はされたが、依然警戒感が強い。
1999年
NATO加盟。
2003年
イラク戦争を支持し、派兵する。(2008年10月完全撤退)
2004年
EU加盟。
2010年
ロシア西部で「カティンの森事件」の追悼式が行われる。
(第二次世界大戦中にソ連のグニェズドヴォ近郊の森で約22,000人のポーランド軍将校、国境警備隊員、警官、一般官吏、聖職者などがソビエト内務人民委員部(NKVD)によって銃殺された事件)
2010年4月7日、ロシアのプーチン首相はこの事件をソ連の責任と認め、ポーランドのトゥスク首相と共に慰霊碑前で追悼した。
なお4月10日、現地で行われるポーランド主催による追悼式典に参加する予定だったポーランドのレフ・カチンスキ大統領が搭乗したポーランド政府専用機がスモレンスクの空港付近に墜落する事故があった。ポーランド大統領夫妻及び多数のポーランド政府高官が死亡している。)
10.5万人
陸軍 6.1万人
海軍 0.74万人
空軍 1.9万人
特殊部隊 0.34万人
地域軍 0.08万人
統合軍 1.4万人
ロバート・クビサ(1984年12月7日生~)
【レーシングドライバー】
ポーランド共和国クラクフ市出身。ワールド・シリーズ・バイ・ルノーの初代チャンピオン。ポーランド人初のF1ドライバー。
LOTポーランド航空
ポーランドのフラッグキャリア(国を代表する航空会社)。1929年にいくつかの民間航空会社が合併して設立された。ポーランド国有財産省が株式の99,82%を保有。2018年現在、日本へは成田~ワルシャワ間が就航中。
ドンブロフスキのマズルカ
「ポーランドは未だ滅びず」の名でも呼ばれている。楽曲はかつてのユーゴスラビア社会主義連邦共和国及びユーゴスラビア連邦共和国、セルビア・モンテネグロの国歌であった「スラヴ人よ」にも使われている。この歌は第3次ポーランド分割(1795年)によって共和国が全ての領土を失ってから2年後の1797年に、ヤン・ヘンリク・ドンブロフスキ将軍が率いる亡命ポーランド人部隊の軍歌として書かれたもので、この抵抗歌が第一次世界大戦後にポーランド国歌として定着した。